1400曲以上のシャンソンを書き、60本以上の映画で演じた。

 

 「メロディー重視の米国で生まれていたら、歌手にはなれなかった。シャンソンは歌詞が大事なんだ」。

この夏も南仏の自宅で机に向かい、歌詞を練った。

 

 アルメニア系移民の両親は20世紀初め、米国を目指したがフランスで手続きが滞り、そのまま住み着いた。貧しさから10歳頃で学業を諦めて俳優と歌手を志し、パリの舞台で日銭を稼いだ。

 

1946年、シャンソン歌手エディット・ピアフに見込まれて前座で歌い、名が知られるようになった。

 

 でも「コンサートではいつも、あがっていた。観客が怖かった」。

 

しゃがれ声、身長約160センチと小柄で、ぶきっちょな身のこなし。「無学」の引け目もあった。

 

 それが舞台を重ね、表情は豊かさを増した。身のこなしは軽くなり、今や観客に冗談も飛ばす。

 

「私にとって舞台が学校だった。観客の反応からすべてを学んだ」

 

 多くの大物歌手が世を去り、数少ない大御所だ。だが「今でも街頭の子どものつもりだよ。歌詞も表現も、やりたいようにやる」。

 

 5月に自宅で転び、左腕の骨を折った。腕には骨を支える器具が埋まっている。「ステージに立つには、戦争に行くくらいの覚悟と体力が要る。でも、もう元気だ」。完全復帰する9月17日と19日の日本公演に向け、屈託ない笑みを浮かべた。

 

 (文 疋田多揚)朝日新聞社提供

2年前、シャルル・アズナヴールが来日した時、これが見納めと考えたファンは少なくなかった。

だが94歳の今年、シャンソンの生ける伝説はさらに声のつやと目の輝きを増し、もう一度私たちの前に立つ。

彼を見いだしたエディット・ピアフと同じように、命ある限り歌にすべてを燃やし尽くすシャルル。

今回の来日中、またひとつ歳を重ねる彼の音楽は、魂は、どこまでその純度を高めていくのか。

長年彼に多大な影響を受けてきた谷村新司さんが、万感の思いをつづった。

 大学一年生の頃だったと思う。

 

ステージで歌う彼の姿とその声を体感したのは大阪だった。

圧倒的な女性観客の中に埋もれて、ただ彼の一挙手一投足を息をつめて見つめ聴いていた。

語るように歌い軽やかなステップを踏む、その動きの艶っぽさに魅せられていた。

当時十八歳の私にとって彼のステージはヨーロッパの香り溢れる大人の世界そのものだった。

二人の男女の間でまるで道化のような立場で歌う、その切なさに心がふるえた。

 

後に彼は世界的なヒット曲を生み出してゆく。「イザベル」「She」……数え上げればきりがない程の作品の数々……そのどの歌にも彼らしさが漂っている。

 

あれから50年もの月日が流れ92歳になっている彼のステージをNHKホールで観た。

 

自分の目の前に彼がいる……その事が何よりもうれしくてステージ上の彼を見続けていた。ピンスポットが眩し過ぎるのか、少し手をかざしてピンを遮り不機嫌そうな表情を見せた、そして何事も無かったかのように歌い始めた……自然体そのままで歌い続けてゆく……彼の作品の持つ力にぐんぐんと引き込まれてゆく……何とも心地良い時間が流れてゆく……彼の歌を聴きながら自分のこの50年をゆっくりと思い返していた。そしてやっぱり、自分にとっての「語りうた」の原点は彼だったのだと確信した。

 

終演後、渋谷の街をゆっくりと歩いた。体の中に残っている余韻を感じながらただ歩いていた。一方的な出逢いから一方的な再会に……同じ思いを抱きながら帰途についている多くのファンの中の一人として、この時間をしっかりと抱きしめたかった。

 

あなたに出逢えたから今の私がここにいる、そしてあなたと再会出来たから、また明へ向かう歓びを感じることが出来た。

 

シャルル・アズナヴール、あなたの存在にただ感謝……そしてあなたが今も歌っていることに感謝……こうしてあなたへの思いを書き綴っている私は50年の時を超え、十八歳の大学一年生の心に戻っています。

 

あなたに尊敬と愛を込めて……乾杯!!

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